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MY FOLON

私のフォロン 35年の時を経て

2024/09/10

展覧会の東京会場である東京ステーションギャラリーの館長・冨田章。フォロンが世界へと活動の場を広げていった1970〜80年代、自身が10代の頃に描いた夢やブリュッセルで美術史を学んだ学生時代を振り返り、文章を寄せました。フォロンがスティーブ・ジョブズからの依頼で描いた「マック・マン」についても語ります。



中学生のころ、イラストレーターになりたいと思っていた。

思っていただけではない、イラストレーションの通信教育講座まで受講していたのだ。

1970年代初め頃のことである。フォロンが各国で個展を開催し、サンパウロ・ビエンナーレのベルギー代表画家に選出されるなど、まさに八面六臂の活躍をしていた時期と重なる。残念ながら、田舎の中学生はフォロンの名前を知らなかったが、イラストレーターたちが脚光を浴びていた当時の空気は十分に感じていた。

1960年代から70年代にかけての時代は、世界的に見てもイラストレーションの黄金時代だった。個性的なイラストレーターたちが次々と登場し、競い合うようにユニークで斬新なイラストレーションを発表していたのだ。日本でも、横尾忠則や和田誠、宇野亜喜良などの活躍は、中学生の目にも輝いて見えた。だからこそ、イラストレーターになりたいなどという野望を抱いてもいたのである。

フォロンのことを知ったのは大学生の頃だったろうか。イラストレーターになるという夢は、自分の力を思い知ってとっくの昔にあきらめてしまっていた。それでも絵画やイラストレーション、デザインなどに関心は持っていたから、フォロンの作品を目にする機会は何度かあったのだろう。

その後、縁あってベルギーのブリュッセルで美術史を1年間勉強する機会を得た。その時アルゼンチンから来た留学生仲間のひとりが、フォロンが好きだと言っていたことをよく覚えている。地下鉄のモンゴメリー駅に設置されたフォロンの壁画も何度も目にした。1988年頃の話である。その時代からでも35年という長い時間が過ぎた。いずれ自分がフォロンの展覧会に関わることになるとは、もちろん思ってもいなかった。

中学校の同級生に、抜群に絵の巧い男がいた。レタリングも上手で、見事なデザイン画を夏休みの宿題に提出した。それを見て、とてもかなわないと思ったのがイラストレーターになるのを諦めた理由である。彼の描いたデザイン画とその時の絶望的なまでの挫折感は、今でもまざまざと思いだすことができる。

その時の自分に会って、お前はイラストレーターにはなれないが、いつかフォロンという優れたイラストレーションを描くアーティストの展覧会を開催する立場になるぞと教えてやったら、落ち込む少年を少しはなぐさめることができただろうか。

地下鉄モンゴメリー駅の壁画 1974年撮影
archives of the Folon Foundation, ©Fondation Folon/ADAGP, 2024.
地下鉄モンゴメリー駅の壁画 制作の様子 1974年撮影
archives of the Folon Foundation, ©Fondation Folon/ADAGP, 2024.


冨田章が選ぶ「私のフォロン」

無題
1983年
水彩

スティーブ・ジョブズからの依頼で描いた「マック・マン」のイラストレーション。ブランドを代表するキャラクターとして構想されましたが、諸事情で実現しませんでした。

「マック・マン」はコンピューターの中で暮らし、利用者を驚かせるキャラクターという設定だったので、帽子を脱ぐと、中からマッキントッシュのシンボルが出てくるのは不思議ではないのですが、まるでパソコンが私たちの頭を占有するようになった現状を風刺しているようにも見えます。

このイラストレーションが描かれたのは、マッキントッシュ・コンピューターの第一号機が発売される前のこと。その時点でフォロンは、何もかもがパソコンに依存することになる現代の状況を予見していたのかもしれません。

冨田章 東京ステーションギャラリー館長 学芸員として展覧会も担当し、これまでに「夢二繚乱」(2018年)、「メスキータ」(2019年)、「神田日勝」(2020年)、「藤戸竹喜」(2021年)などを手掛けた。


©Fondation Folon, ADAGP/Paris, 2024-2025